姫野さん
やっと帰って来られたんですね。
3日の早朝から4日間もカッパと遊びすぎですよ。
カッパ黄桜のCMにでてくる色っぽいカッパさんがいたんですか。
この数日いろんなことを思い出していました。
中途半端にです。
中途半端にしか思い出せませんでした。
本気で思い出したらそれは決定的なことになってしまうからです。
ちゃんと書いてしまわないと何度も何度も思い出してしまうんで
ちゃんと書きますよ。
27歳の冬、私は東京からj実家のある徳島へ戻ってきました。
そしてその時期の私はアウトドアにはまっていました。
当時
「♪ すぐ美味しい、すごく美味しい~ ♪」というチキンラーメンのCMで
カヌーイストで作家の野田知佑さんがカヌーに乗っている映像が流れていました。
ある日徳島新聞を読んでいたら
「野田知佑さんと川で遊ぼう」というようなイベントの
スタッフ募集かなんかの記事がのっているのをみつけました。
徳島に戻ってきた私は新しい何かを始めたかったのです。
その連絡先が姫野さんでした。
私はそく電話をしました。
電話での話し方が快活で感じが良かったので
思わずカッコイイ人を想像しそうになりましたが
実際の姫野さんはおっちゃんらしい
人なっつっこいおっちゃんでした。
川のイベントではたくさんの仲間達に出会いました。
姫野さんの奥さんを始め、姫野さんと同世代の奥様たちは
パワフルでイキイキとしていました。
いつも良くしゃべり、よく笑っていらしたように思います。
結婚して子供が出来ても、自分たちがやりたいことをやっている
というような雰囲気がありました。
私の同世代の仲間達もいて、みんな仲が良かったし
よくキャンプにでかけました。
徳島と言えば田舎のイメージだと思いますが
案外、町なかに住んでいるので、川で泳いだ経験はないに等しく
本当に美しい清流、海部川の存在も知らずにいました。
川のイベントが楽しくて仲間達といる時間が嬉しくて
いつしか私は吉野川第十堰について考える
吉野川シンポジュウムのメンバーになっていました。
第十堰です。
この堰の真ん中に立つとすごく気持ちが良かったことを思い出します。
姫野さん、ごめんなさい。
第十堰について未だにすらすらと語れなくてすみません。
難しいことはわからなくて。。。。ややこしくて。。。。
ただ、
吉野川は全国に誇れるええ川や!とか
公共事業で莫大なお金を使って巨大なダムを造って
川を死なせてしまうことはあきまへんで!
ということしか言えません。
振り返ってみれば
私は1994年の5月のイベントで河口堰問題を知り
なぜかニュースレター「吉野川だより」の編集を任されることになりました。
当時は手書きで、ページ数が少なくて、自由にさせていただいていました。
7月には第1回目のシンポジュウムをお手伝いさせていただきました。
お盆には「吉野川連」で阿波踊りに繰り出し
その夏には長良川のシンポジュウムに仲間達と参加し
長良川をカヌーで下るという体験をさせていただきました。
秋には姫野さんを始め、仲間達とダムに沈んだ村を取材し。。。。と
楽しく過ごしていきました。
姫野さんは使命感ともいえる気持ちで動いていらっしゃったと思いますが
私はただ、知らない世界を知って嬉しい~~とか
川で泳ぐの楽しい~~とか
ほとんどそんなレベルでした。
吉野川河口堰の運動はどんどんみんなの関心を集め
大きなうねりへと変化する頃
私は1995年の6月に出会って間もない今の主人と
サササっと結婚することになり
さようなら~~~徳島~~~
と尼崎にきてしまったのです。
結婚してすぐに妊娠をして
出産して子育てをしてという私は生活に追われ
吉野川の仲間たちとも運動とも少しずつ疎遠になってしまっていました。
またいつでも会えるし~~~。
川に行ったら誰かに会えるし~~。
姫野さんなら着実に成し遂げていくやろうし~~~。
と安心し、若いメンバーに任せますわ~~~とでも言わんばかりに
なにもしていなかった現状がありました。
現にこの3月には前原国交省大臣が「第十堰を保全せよ」と宣言され
17年にわたる運動が実を結んだのです。
姫野さんがつくった「川の学校」は川ガキを育てる学校で
ゴールデンウイークや夏休みなどに開かれていました。
これはもうめちゃ魅力的で子供達を通わせたかったのですが
息子は休みなく野球の練習に明け暮れる野球少年になっていて
そのチャンスはありませんでした。
そんな矢先のことでした。
うちの母から電話がありました。
「姫野さんが海部川に行ったまま
行方不明になったってニュースが流れてな。」と
その時点で2日経っていたので、呆然としてしまいました。
生存の可能性は低いのだ。。。。と。
なにか情報をと探してみたら
捜索状況をツイートしてくださっている方を見つけました。
写真家の
村山嘉昭さんのツイッターです。
以下いくつか転載させていただきました。
姫野さんはいぜん行方不明ですが、神野橋から1.5kmぐらい下流にて、
姫野さんが持参していただろう雨ガッパの上着が見つかりました。
水中に沈んでいた枝に引っ掛かっていたとのこと。
吉野川グループとして捜索に参加している全体を知っているわけではありませんが、
ぼくのまわりでは冗談を口ずさむことがあれば、
笑い声を立てることもあります。真剣に捜索を続けていますが、
みんな元気に落ち込むことなく、
それぞれが出来る範囲でやれることをしている状況だと思います。
おはようございます。捜索4日目。ぼく自身は3日目の朝です。
今朝も快晴で、綺麗な空が広がっています。
明日の午後から天気が崩れるので、今日は更に念を入れて水中捜索をするつもりです。
今日も太陽が山に隠れるまで捜索を行いたいと思います。 http://twitpic.com/2v8br8
見つかったとの一報。警察の到着を待っています。
捜索は終わり、撤収です。捜索に参加された皆様、
参加できなかったけれど捜索を見守っていただいた皆様、お疲れさまでした。
川の中にいた姫野さんを見つけたのは、
川の学校経験者や卒業生。彼らに見つかり、姫野さんは嬉しかったかな、
恥ずかしかったかな。姫野さんが蒔いた種は確実に根付き、
逞しく成長しています。吉野川を未来へ引き継ぐ仕事は若い彼らに任し、
安心して見守っていてください。長い間の活動お疲れ樣でした!
本日18時半より、吉野川の第十堰南岸にある「お堰」にて、
捜索に参加された方々による慰労会(なんと呼んだらいいのだろう)が催されます。
お通夜や葬儀はご遺族の意向で、親族のみで行われるとのこと。
後日、たくさんの方が参加できる偲ぶ会が行われると思います。
吉野川の畔にて催された捜索慰労の集まりに参加した。
制服姿の女子高校生から前徳島県知事までがテーブルを囲み、
それぞれが想いを聞き、想いを語っていた。
お陰でぼく自身は気持ちの整理がつき、哀しさではなく前向きな気持ちになった。
笑い声があがるほど盛り上がり、ずいぶん気持ちが癒された。
私はこの方のツイッターで助けられました。
ありがとうございました。
あと、懐かしい仲間の懐かしい声を聴きました。
「かよちゃん、今日の捜査はもう打ち切りってことで、今帰ってる途中なんやけどな。
海部川に久しぶりに来てみたら広かったわ。潜水できるわけでもないし、
ただ川を見つめて無力やなって思ったよ。ただの自己満足やんって。
でも会えるって信じていようね。」
気丈に振る舞う懐かしい仲間の電話やメールに泣かされました。
いつでも会えると思っていた人が
私にたくさんの影響を与えてくれた
人生で鍵となる人が
突然いなくなることを知りました。
私が主人と結婚できたのは吉野川の仲間の一人がお膳立てしてくれたからでした。
そんな数々の出会いをつくってくれた人でした。
姫野さんのことを思い出すときに姫野さんが使っていた石井弁を思い出します。
「~~してください。」というのを
「~~してくれまいか。」というのです。
姫野さんが「まいか」と言うと
私と電話で話した懐かしい仲間は顔を見合わせて笑ったものでした。
姫野さん、今までお疲れさまでした。
姫野さんとほんの短い期間でしたが、ご一緒できて良かったです。
これからはそのことを誇りにして自慢にして生きていきます。
そしてこれからも徳島の自然を
全国の川を、川を愛する人たちを
ずっと見守り続けていてくださいね。
見守り続けていてくれまいか。
7日午前11時すぎ、徳島県海陽町大井の海部川で、
釣りに出かけたまま3日から連絡が取れなくなっていた同県石井町藍畑、
司法書士、姫野雅義さん(63)が遺体で見つかった。
県警牟岐署によると、捜索に加わったボランティアが見つけ、家族が確認した。
同署によると、長靴など釣り時の着衣のままとみられ、
目立った外傷もないことから、同署は釣り中に誤っておぼれたとみている。
姫野さんは、同県の吉野川に可動堰(ぜき)を建設する旧建設省の計画に反対を続けた
市民運動のリーダーで、計画の賛否を問う徳島市の住民投票(00年1月)を実現に導いた。
【山本健太】
村山嘉昭さんのホームページには
川で遊ぶ子供達の笑顔の写真が掲載されています。
こちらから
虫と魚と釣りと川が好きだった少年時代の姫野さんの面影が
この中にもあるかもしれません。